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甘い学習

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英会話カフェというものがあって、これはいわゆる英会話教室よりももう少し敷居を低くした英会話練習施設である。私の行ったところは無機質な部屋に2人程度外国人がおり、フリードリンクを適当に自分で飲みながらあとは好きにしてというようなものであり、これで一時間1000円弱という感じである。よく宣伝されているような大手の英会話スクールと比較すると半額以下である。また予約などが要らないので、行きたいときに勝手に行って、辛くなったら帰ればよいというのが気楽である。その代わり、外国人は特に英語の専門家というわけでもなく、英語を教えてやろうという気もあまりなかったり、モチベーションに個人差があったりする。総合すると、新しいことを学びにいくには不向きだが、会話の練習という意味では気軽でいいだろう。


気軽といっても、始めは入るのに勇気がいるものである。私が最初に行ったときには、私より英語が下手な人がいて精神的に助かったというのがある。この間は全員私より上手く、しかも外国人が一方的に話す人だったので、私だけついていけず玉砕した。
ところでこの勇気というか、気恥ずかしさというのは何なのだろう。もちろん知らない店、知らないコミュニティに入っていくことは多少緊張したりするものであるが、特に英語の勉強のときに特別な気恥ずかしさを感じるように思う。さらに外国人と話そうとしているときに、隣に日本人がいたりすると最悪である。気恥ずかしさはマックスになる。


英語の恐ろしいところは、普通に苦しくて辛いお勉強であるにも関わらず、基本的に身につけたいスキルでもあるということである。さらにその出来には地頭のよさ(こういう言い方は基本的に嫌いだが)や努力量、センス、要領のよさ、学習にかけられるお金と時間…というものが関係してくる、ように思われている。社会に出ると、だんだん学校の成績みたいなものは関係なくなり、ただの思い出話のようになっていくが、英語学習についてはうっすらとそれが続いているような感覚がある。


すごくざっくりとした見方だが、英語が出来不出来が教養のありなしのような目線で見られるというようなことなのではないか。もちろんそれは厳密には違うものである。しかしこの身につけたほうがよいが、身につけられないというようなジレンマ、不出来なところを見られるのが恥ずかしいというような羞恥心というのは、教養という(この言葉も極力えらそうに使いたくはない言葉だが)ものの存在に似ているような気がする。
しかし誰でも最初から英語が出来たわけではない。誰しも最初は不慣れにたどたどしい英語を喋っていたのであって、それを笑えるものはいないはずである。また、英語は急にできるようになるものではなく、徐々にゆっくりと上達していくものでもある。ならば、たくさんの人がその過程上にいるはずだが、その人たちはあまり声を上げることはない。


私は、英語の勉強を、苦しんで目を瞑り、駆け抜けるように上級者になりたいのではなく、その過程の景色を楽しみながら、ゆっくりと続けたいと思っている。それは、そのほうが美しいとかかっこいいとかではなく、辛い思いをするのが嫌だし、がんばって勉強するのは面倒だからである。どうせなら、自分の納得いくように、趣味のようにやりたいということである。


英語の勉強をしていると、多くの知人がアドバイスをくれる。一番重要なのは単語の暗記量であるとか、発音であるとか、ラジオでニュースを聴くのがよいとか、外国人の恋人をつくるとよい、といった、効率よくすばやく英語を習得できる早道を教えてくれるのである。しかし私が本当に求めているのは、作業的にならずに単語を覚えられる方法だったり、発音が正しいかどうかをどうチェックできるかということだったり、聞きやすいが力にもなるラジオ番組だったり、双方の負担にならず外国人に英語を教えてもらえる方法であったりするのだ。こう説明すると、あまりいい答えは返ってこない。私のこの考え方は甘いとおもうのだが、英語を勉強する必要が必ずしもない状態で、甘く勉強することについては、誰にとがめられるものでもないだろう。


そういうわけで、このブログは、英語初心者が甘く勉強することについて声を上げている場所があってもよいはずだというスタンスでやっている。本当に楽しくて異様に効率のよい勉強法が見つかればしめたものである。