テレパスランゲージ

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時には、自分のやっている勉強は何の意味があるのか、果たして何の役に立つのか、全て投げ出しても何も変わらない生活があるだけじゃないのか…そんな気持ちにもなったりするものだ。春がやってきて暖かくなったのはいいが、雨が多くなり憂鬱とした気分が心を支配していく。いや、気分なんていつだって理由なく暗くなったりするものなのだ。我々は暗くなった気分から、無理やりその理由をこじつけているにすぎない。

こういう考え方がふと頭をよぎることはないだろうか。人類は知識や学問などを構築し高度な知的文明を築いてきたが、実は全て感覚だけで成り立っているのではないか。政治も、経済も、全てその役割を担う人間が感覚で動かしているものに、後から理由が加えられているだけなのではないか。実はだれも何も考えていないのではないか…

言葉があることで、我々は物事を考えることができる、という言い方がある。ある概念に対して、適切な言葉が与えられることによって、その概念を始めて把握し、コントロールすることができるようになるのだと。つまり言葉が我々の感覚に枠組みをつくり、その枠組みによって思考できるのだと。私はかつてこのような考え方にある程度賛成していたように思えるが、最近それがよくわからなくなっている。

英語を勉強していると、日本語にはない未知の感覚について思いをはせることがある。あるいは英語にない日本語の感覚についてである。ごく簡単な話だが、how are you?に対してhi, how are you?で返すことができるというのは挨拶についてどういう感覚があるのか。冠詞aをつけるかつけないかを瞬時に想定し真っ先に口から出てくるというのはどのような感覚からなのか。スピーキングとライティングの差異についての感覚はどのようなものなのか。

これらは英語の感覚であるから、いつか私が英語を完璧に使いこなせるようになったら自然と身についているものなのかもしれない。こう言うと、言語の学習によって感覚が身につく、つまり言葉が感覚に輪郭を与えるということそのものではないか、というように聞こえるかもしれない。しかし、先ほど挙げた感覚というものは、ネイティブなら子供のうちに身につける、基礎の基礎である。母語が違うだけでこのような基礎の感覚すら共有できないということは、我々は何もかも感覚を共有していないのではないか?

この質問については、もちろんNoである。我々は母語が違い、お互いの感覚について完全に理解することができないとしてもなお、何かを共有しあっているのである。感覚が先にあり、その感覚を他者と通わせる術は、もっと何か良い方法があるのかもしれない。今は言語というものがあり、言語が感覚を縛り、その縛り方の違いで疎通に問題がおこるのだと考えることも可能である。

言語は、人間が発明しここまでの繁栄を支えた宝であり、文化であり、武器であり、そしてまた、枷であるのかもしれない。私が目指したいのは、感覚の究極の自由である。早く雨が上がって、青空が見えることを願う。