ステータス・カウンタは回る
納得できる勉強を続ける前の前提として、自分の力がどれくらいあるのかを把握する必要がある。しかし人の能力というのは単純に数値化できるものではない。私はテストを受けたがらないからなおさらである。あくまで目的は、納得のいく勉強のための自己把握である。自己把握を始めよう。
さてその前に、私の考える英語勉強世界の概要を大雑把に解説する。まず英語の使い方としての4分類がある。「リーディング」「ライティング」「スピーキング」「リスニング」である。これは独立した柱であると捉える。つまり「リーディング」だけを伸ばし続けても、「スピーキング」はあまり伸びない。ただ「リーディング」と「ライティング」、「スピーキング」と「リスニング」の間には多少相乗効果が見られる。それぞれに有効な勉強法があり、また、単語と文法について学ぶことは、どの分野においても有効である。
ところで学校教育における英語とは、基本的にリーディングの勉強である。なぜリーディングなのかというと、教えやすいからである。学びやすく、テストで計りやすいリーディングが学校教育の基本となることはまあ仕方ないだろう。その後に、文章力を総合的に見る必要があり正答に幅があるライティング、教材の準備に手間がかかり教育方法も定まっていないリスニングが教えられ、最後に残ったスピーキングはほとんど教えられないのではないか。つまり学校教育を卒業した時点で身についている4分野の能力には差があり、そこから何をどう学び、何を忘れるかで現在の能力が決まるのである。
さてではこの4分野において、今の私の能力を客観的に把握していこう。分かりやすく把握するために、RPGのレベルに例えていこう。最高はLV99である。全ての能力においてLV50以上であれば、まあ表ボスなら普通に倒せる程度だ。LV30程度なら、いっちょ前の冒険者として箔がついている頃だろう。LV15くらいだと、駆け出しの冒険者としては名前が挙がるようになってきて、初期の中ボスと腕試しをするような感じである。
まずはリーディングだが、これは前述のとおり学校教育である程度基礎ができているはずだ。私は学校の英語テストではある程度点数が取れたほうだ。だが今現在、なぜかうまく英文が読めない。これは考えるに、単語の勉強量があまり多くないことがあげられるだろう。おそらく受験などで覚えた単語もある程度忘れてしまっているのだろう。また、文法の理解が厳密な部分で身についていないため、綺麗な構文が多い学校のテストではフィーリングで読めてしまったものが、日常的な英文で読み取れなくなってしまっているようにも思う。現在、Webサイトなどの英文を読む必要ができた際には、英語辞書やオンライン翻訳などを駆使しつつなんとか読んでいるといった感じだ。これでは実用には程遠い。もっと弱いザコ敵をたくさん倒しつつ経験値をあげる必要があるだろう。レベルは5とする。
次にライティングである。ライティングが必要となるような場面がこれまでにあっただろうか。先日お会いした、がんばって英語を習得した方のお話を聞くと、ライティングは英語の総合力の上昇のために非常に有効だという。表現したいことがまずあり、そのために単語を調べて使う必要があるから、必要な単語から実用的に身につけることができ、手を動かして書くことで記憶にも定着しやすいのだという。なるほど、確かに説明としては説得力のあるものである。ライティングは、正しい文法はさることながら、文章の組み立てや表現のために、幅広くボキャブラリーが必要となってくる。おそらく単語量と、書きたい文章のお手本となるような英文を読み込んで自分の中にストックしていくことが求められるのだと思う。私はそうした練習をしているか?全くしていない。まずは手を動かす事からはじめるべきだろう。スライムベスに苦戦しそうだ。レベルは2とする。
思いのほか長くなったので、翌日へ引き継ぐこととする。果たして世界を救うような勇者は生まれるだろうか。
オノマトペの宿主
このブログは正しい英語については全く保証できないので、基本的に英語についての断定は避けているつもりである。英語ができないし何も分かってはいないが、文体は偉そうに書くというのがスタンスのひとつである。
しかしこれくらいは断定させてもらおう。「do」は英語の中で最もよく使われる動詞である。なにしろ疑問文の文頭にも使われるし、代動詞としても使われる。「do」を制するものは英語を制するというのは、さすがに過言であるが。
日本語で「do」にあたるのは「する」だろうが、これもよく使われる。疑問詞に使われたりはしないが、「する」は日本語特有の使われ方をしている。それは漢字や外来語とあわせて新たな動詞を作ってしまうという使われ方である。「改善する」「ゲームする」など、適当なことばと「する」をあわせれば動詞ができてしまう。便利なものである。
さて英語の「do」も、日本語の「する」も、妙な活用をする。「do」は「do,did,done」、「する」はサ行変格活用である。おそらく頻繁に使われる言葉は、使い込まれるうちに他の言葉とは違った変化をするのだろう。
この「do」がじゃあ一体どこから来たのだろう、と思って調べてみると、もともとは「don」という音であったようだ。(インターネットのいくつかのページからつまみ読みして推測している話なので、確かなソースは見つけていない。)そしてこの「don」は、もともと物を置く動作のことを示していたようである。ということは、物を置く音から言葉ができているのではないか?と推測する。「do」はもしかすると擬声語なのかもしれない。
考えてみると、英語の動詞には擬声語からきているのではないかと思われるものが多い。pop, smash, chat, flick, click
対して、日本語の動詞にはあまり音から派生したものは少ないように思う。「はじける」「すべらせる」「押す」
日本語には動詞が少ない、という意見がある。この真偽については諸説あるようなのでひとまず置いておくが、日本語に擬声語が多いというのはある程度確かなようで、実感としてもわかるものである。「ぽんぽん」「ぺちゃくちゃ」「すべすべ」など。たとえば仮説として、日本語の動詞には擬声語から派生したものが少なく、そのニュアンスを詳細に伝えるために、擬声語が多くなっているとはいえないだろうか。
日本の漫画では擬声語が頻繁に使われ、英訳の際に苦労するという話はよく聞くが、アメリカンコミックでは「CRAAAAAAAASH」とか「BOOOOOMB」と書かれていたりする。つまり、英語には擬声語が少ないというよりも、それぞれの言葉に擬声語のニュアンスが宿っているのだともいえる。のかもしれない。
ところでそうしてみると、日本語の音は一体どこから来たのかよくわからない。「する」はどうなって「する」という音になったんだろうか。
パッと言う
日本語で書かれた文章から英語を生成しようとすると、どうしても単語や直訳からの並べ替えといった作業が発生してしまう。感覚からダイレクトに英語にする練習というのはどうやったらできるだろうか。
目の前に相手がいて、実際に会話をする、というのが一番よいことは確かだろうが、残念ながらそんな相手はいない。自分の中で会話をシミュレーションする、というのもうまいやり方だと思うが、自分の考えた文章があっているのかどうか確信できない。なにかいい教材はないだろうか。
たまたま昔買った本に、目的に近い本があった。
挨拶や日常会話の一文一文に、イラストが付いている。文章もそれなりに砕けていて、イラストから連想されるシチュエーションから直接感覚的に英語を生成するように仕向けている。挨拶一つでもそれなりにバリュエーションがあったので、これはこれでなかなか悪くない教材のようにも思える。確かどこかのブログで、瞬間英作文の教材としても勧められていたように記憶している。
ところでこの本、説明したように、一文一文にイラストが付いているせいで、イラストの量が半端ない。しかもどのイラストも線の勢い、人物の描きわけ、表情の豊かさ、かなりのクオリティがある。イラストレーターを見てみると、Kajioと書かれているが、経歴によると元ジャンプの漫画家であるようだ。ものすごく納得である。
しかしこの教材も、結局はイラストに添えられた文章から英語が生成されてしまう。英語の文章の記憶を引き出すのに、日本語がキーとなってしまうということだ。極力日本語を経由しないようこの教材が努力しているのはわかるのだが、これはつまり、イラストだけでは導くべき英語を定めることができないという、イラストの限界というのか、あるいは言語の説明能力の優位性というような原理的な部分の問題である。
とはいえ、文章だけの教材より、日本語がキーとなる割合は少なくなりそうだ。イラストから英語を導き出すのは、感覚から直接英語を生成するのに多少は近いだろう。人と対面しているイラストは実際に人と対面した時の感覚と近いのかどうか、という問題はさらに残るものの、重層的な記憶回路を作る上では役立てるべき一冊かもしれない。
さて別の課題としては、これが記憶の教材であって、生成の教材ではないということである。なんとか、日本語を経由せず、生成すべき英語をバリュエーションを持って指定しつつ答えも用意できるようなシステムが構築できないだろうか、というのが専ら最近の関心である。
沼地に生息する玉ねぎの皮
英語は、というより、言語は、沼であり、生き物である。ベトベトンみたいなものだろうか。
言語は今まさに使われるなかで変化しているものであり、その正しさを固定しておくことはできない。使われていくうちに、なぜか意味が拡張したり反転したりする。なぜ「貴様」が相手を挑発するような言葉になってしまったのか貴様には分かるまい。「やばい」がいい意味でも悪い意味でも使われるようになり定義が拡散していったのもやばい。
そしてその生き物の姿を捉えようとすると、どこまでも深みにはまってしまう。言語は使われることが第一の目的であり、正しく使われているかどうかは関係がない。言葉の正しさを捜し求めることは、剥いても剥いても芯のない玉ねぎの皮のようだ。沼であり、生き物であり、玉ねぎの皮である。
フレンズは友人同士のフランクな生きた英語が聞けるすばらしいドラマではあるが、それゆえアメリカの時事ネタや俳優ネタもよく出てくる。あのCM好きなの、という会話が出てきても、そのCMはもはや見ることはできない。10年以上前の玉ねぎの皮はもうしなびている。
また、構文や単語の問題というよりは、文章力が必要となってくるような会話も出来てくる。つまり、フレンズの会話を仔細に正確に追うことは、あまり効率のいい事とはいえない。よく意味の分からない英文は飛ばして、気に入ったところだけ覚えたりするのがいいのではないだろうか。
たとえばエピソード2-1のチャンドラーとテイラーのおじさんとの会話。
Frankie: How long do you want the cuffs?
Chandler: At least as long as I have the pants.
cuffsはズボンの折り返しのことなので、「折り返しはどのくらいの長さにする?」というわけだ。それに対してのチャンドラーの返答が若干しっくりこない。最初、「おれの持ってるパンツと同じくらいにして」ということかな?と思い、いや「おれがパンツを持ってることと同じ長さにして」?なんだかよく分からないな、という感じであった。
そこで検索するとこれである。
フレンズ2-1その3: シットコムで笑え! 海外ドラマ「フレンズ」英語攻略ガイド
「折り返しはどれくらいの長さにする?」「少なくともおれがパンツを持ってる間は」
なるほど、折り返しの長さを聞いたフランキーに対して、時間の長さで返したチャンドラーというわけである。面白いし腑に落ちてすっきりしたが、ところでこのブログの方はTOEIC満点だそうだ。満点の人が一旦は訳し間違えている。それが私に分かるわけがない。というか、これは英語の問題ではない。
こういうものを全て追っていくと、英語を勉強しているのかなんなのか分からなくなるので、ほどほどにする。特にチャンドラーのジョークは、ウィット過剰なので追いすぎに注意する。好きだが。
同じエピソード2-1でのチャンドラー絡みで余談だが、フランキーに股間を掴まれたチャンドラーが「cupping.」と言うシーンがある。
握る・掴むという意味の動詞なら他にもあるが、ここでcupという動詞を選んだのはおそらくその手の形やしぐさによるのだろう。包み込むような、やさしい手触りが伝わってくるようだ。やめて欲しい。
英語のニュアンスを感じるために、私はgoogleの画像検索をよく利用する。この「cupping」も、手で包み込むような画像が出てきたりするだろうか?と思い画像検索をかけてみると、結構グロい画像が一面に表示された。Oh my god.
どうやらcuppingは、背中にカップ型の吸盤を付けて血を吸いだす健康法の名前として主に使われているようだ。そしてこの画像集は、その健康法の被害写真である。吸盤で背中を吸いすぎて円形に内出血している赤黒い画像でびっしりである。
タバコもcuppingも、吸いすぎに注意というのが今回の教訓である。
私はここにいません
フレンズの日本語字幕なし視聴だが、エピソード2-1からはじめている。学習スタイルが定まらないままエピソード1をだらだら繰り返し見ていたので、気分の切り替えのためにエピソード2から改めて見始めたのだった。
キャラクターの感情がこもったせりふはリズムが印象に残るので覚えやすいような気がする。レイチェルがロスを出迎えるシーン。
Enough about me, enough about me, Mr. Back from the Orient. Come on. I wanna hear everything! Everything!
Enough about me.は、ナッバウミとしか聞こえない。私のことはいいから!と言うときにぜひ使おうと思っているが、そんなシーンにはなかなか出くわさない。
ミスターバックフロムオリエントは、英語特有のあだ名と言うか揶揄の仕方というか、ミスターリッチといえばこの金持ちマンが、というニュアンスである。書いていて思ったが、~~マンというのはいい訳し方のような気がする。意訳というか、妙な身内感のある口語ではあるが。つまりミスターバックフロムオリエントは、この東洋帰りマンが、という感じだろうか。
Everythingの言い方、というか語気の荒らげ方が楽しくて、つい口に出したくなる英語だ。エッヴィシンという感じ。
ジュリーがアパートにやってきて早口で挨拶するところも、聞き取れなくて何度も聞いていたら唱えられるようになってきた。
Hi, but I'm not here, you haven't met me. I'll make a much better first impression tomorrow when I don't have 20 hours of cab and plane on me.
ハイ、でも私はここにはいない、あなたたちは私に会っていない…
何を言ってるんだ。
…明日もっといい第一印象にするわ、タクシーとか飛行機に20時間も乗ってない時に。
このあたりのhaveやon meの使い方は英語的センスという感じがする。それにしてもウィットに富んだ自己紹介である。
私がここにいないことを伝えるとき、あなたは私にまだ会っていないと言うとき、使いたい英文である。一生使わないだろう。
ここのyou haven't met meのリズムがなんとなく面白く、なにしろ早口なので、音がどろどろに溶けている。yaヴnメッミという感じ。tの音は消えるし、you haven'tも、ほとんど子音のような音になる。
日本語ネイティブとしては、母音のない単語はなかなか意味のある音として頭に入ってきてくれない。ノイズのように聞こえる。
余談だが、ギリシア人が他民族、転じて野蛮人を指した言葉「バルバロイ」は、その話す言葉が「バルバルバル」と聞こえたことが語源なのだという。それが英語の「バーバリアン」に派生しているわけだが、バルバロイも全音節に母音が入っていて聞きやすい。音が基本的に母音で終わる言語を開音節言語と言うらしい。
閉音節と開音節って何? こうやってカタカナ英語が作られる | 英語びより
つまり「バルバロイ」は開音節言語を使う人だったりしたのかもしれない、というのは何も調べてないまま言う戯言ではあるが、それはともかく、失礼な言い方である。そんなこと言ったら、英語を喋る人はペラペーラマン、ミスターペラペーラである。ペラペーラも全部開音節になってしまうのが悲しい。
ともかく、全てが開音節になってしまうバルバロイであるところの我々としては、子音の連続を意味のある音として捕らえるような意識を作ることがまず最初の一歩なのだろう。そのための2万時間リスニングである。最近心なしか、もしかしたら薄っすらリスニングが上達したような気もわずかながらしなくもなくもない。引き続き聞くことにする。
ビデオオンデマンドサービスの憂鬱
以前書いたが、英語学習に良いと聞いたのでフレンズを見ている。実に面白くてどんどん見ているが、どんどん見たいがために、英語字幕を諦めて日本語字幕で見ている。
それでもリスニングの足しにはなるだろう、一周見終わったら英語字幕でもう一度見よう、などと考えていたのだが、フレンズは非常に人気があったためにシーズンを重ねに重ね、1シーズンあたり24話、それが10シーズンある。10年かかっている。最初の頃若かった俳優もドラマが終わるころにはおじさんおばさんになっている。長すぎていまだ一周できていない。今は9シーズンの中ほどだ。
長すぎてだれたので、最新話を見進めるのと並行して、最初の方から英語勉強用に見返すことにした。
また、フレンズのスクリプトがまるまる掲載されているサイトがあったりするので、空いた時間に読み流したりする。
基本的には、ドラマを見ながらシャドーイングしたり、スクリプトを丸暗記して諳んじてみたりする。口がこなれてくるとなかなか楽しいものである。演技を真似たりすることで英語のリズムや感覚も身についてきたりするのではないだろうか。
ところで、フレンズを私はNetflixで見ていたが、Amazon primeビデオにもあるようだ。そして、Netflixではオフラインでも視聴できるダウンロード機能がないのだが、Amazonにはあるようだ。 Netflixだと、通信量を気にして通勤中などに見るのを憚られる時があったから、Amazonのダウンロード機能は嬉しい。
たまたまAmazon primeのお試し期間中だったので、ちょうど今ダウンロードしてみているところだ。
字幕の出来やプレイヤーの使い勝手なども気になるが、問題なさそうならNetflixの解約を考えてもいいかもしれない。
…と書いたところでダウンロードが終わったので少し見ていたのだが、なんと英語字幕版がない。見た限り全て日本語字幕だ。なんてことだ。うまくいかないなあ。
Netflix版は、英語字幕・日本語字幕の切り替えができる。英語字幕で見て、わからないところだけ日本語字幕を見る、なんてこともある。しかしダウンロードはできない。
どちらも今ひとつ痒いところに手が届かない。ひとまずはダウンロードした分を通勤中に見るなどしてみよう。またうまい使い方が見つかったらアップデートしていく。
言葉とイメージの狭間には
瞬間英作文をやる。瞬間英作文は単純な素振りトレーニングなので、飽きやすい。飽きてくると、些細なことが気になってくる。
私が弟の部屋に入ってきたとき、彼は寝ていた
My brother was sleeping when I came into his room.
たとえばこういう訳文があり、日本語の順序と英語の順序が変化していることがある。
この日本語からこの英語を導こうとすると、
私が弟の部屋に入ってきたとき、彼は寝ていた
↓
彼は寝ていた、私が弟の部屋に入ってきたとき
↓
弟は寝ていた、私が彼の部屋に入ってきたとき
という3ステップの語の入れ替えが必要になる。これはあくまで私の英語力がポンコツだからだが。
翻訳の答えはひとつではない。だからこの1ステップ目をそのまま訳して、whenが前に出てきていても間違いではないだろうが、正答として書かれている文章にはどうしても意識が引き寄せられてしまう。なぜなら私の英語力がポンコツであり、自分で作る文章には自信が持てないからである。
また、この教材は口の動きを作るトレーニングでもあるから、こういう英文が書かれている以上、この英文を口に出し慣れるのが、この教材の求めているところだと思われる。
しかしそうして機械的に記憶してしまうと、この日本語の対応としてのこの英文、以外の応用が難しくなってしまう。実際、この例文をこなしているときは「ああ、この文は確か答えではwhenを後ろに持ってきていたな…」と、英文の構造を思い出してしまうのだった。これは少し文章構成の練習の機会を損失しているように思える。
さてそもそもなぜ語順の変換の必要がおこるのかといえば、日本語は基本的に時を説明する文章を主部の前に配置するのに対し、英語では後に置くからである。この違いは一体何なのか、どういうニュアンスの違いを生むのかについてはまたいずれボンヤリ考えるが、それはさておき、こういう言語の構造上の違いにより、日本語を英語にするときに語順の変換がおこるのである。
この語順変換ステップの省略のためには、最初から英語で考えるべきである。あるいは、語順を英語調に並べ替えた日本語で考えるべきである。もちろんこれは感覚を英語モードに入れる必要があるから、英語モードで感じるための練習も必要になってくる。そのためには、日本語から英文へ並べ替える練習をすることはむしろ逆効果と言えよう。
日本語文を読んで英文を作るのではなく、感覚から直接英語を作る練習をするのが望ましい。ではどうやって練習をすればいいのか?この問いに対しての答えは、引き続き試行を重ねつつ随時提案していきたい。