表現英文法

 この土日は多忙により、ブログの更新ができなかった。開始以来の連続更新記録は途絶えてしまった。連続更新自体に意味はないと思うも、少し寂しい気持ちがあることも確かである。気を取り直していこう。

多忙ではあったが、英語の勉強はしていた。数日前にいい本を購入したので、まだ途中だが紹介しようと思う。

英語の文の構造、つまり文法について、なぜその表現が選択されるのか、その言葉のニュアンスはどのようなものなのか、について詳細に解説された本。いわゆる文法書ではあるが、その目次からして独特である。

【第1部】名詞の文法 (モノ的世界)
[Chapter 1] 対象のとらえ方を示す冠詞
[Chapter 2] 数詞と数量詞
[Chapter 3] 前置修飾
[Chapter 4] 後置修飾
[Chapter 5] 代名詞
[Chapter 6] 名詞節

【第2部】動詞の文法 (コト的世界)
[Chapter 1] テンス(時制)とアスペクト(相)
[Chapter 2] 未来を語る表現
[Chapter 3] 動詞のタイプ
[Chapter 4] 話し手の態度と法助動詞
[Chapter 5] 態 能動態と受動態と中間態
[Chapter 6] 動詞のスクリプトと構文
[Chapter 7] 形容詞構文

【第3部】 副詞の文法 (状況的世界)
[Chapter 1] 副詞的表現の機能と位置
[Chapter 2] 豊かな意味を生み出す副詞的表現
[Chapter 3] 前置詞

【第4部】 情報配列と構文
[Chapter 1] 語順 情報配列のテンプレート
[Chapter 2] 情報連結詞
[Chapter 3] 文のタイプ
[Chapter 4] 比較構文
[Chapter 5] 否定構文
[Chapter 6] 話法
[Chapter 7] 仮定法構文

 

この本の最初は、「a」の使い方から始まる。aをつける名詞、つけられない名詞、いわゆる「可算名詞」「不加算名詞」の説明だが、単に例としてそれぞれの単語を上げるだけではなく、そのニュアンスの違いにまで踏み込んでいる。つまり可算名詞か不可算名詞かというのは、単にそう決まっているから、というものではなく、英語話者のモノに対する感覚を表している、ということなのである。たとえば「sand」は不可算名詞だが、「pebble」(小石)は可算名詞である。「rice」や「wheat」は不可算名詞だが、「oats」は可算名詞である。こうした詳細なニュアンスの考察を踏まえたりすることにより、「a」の項目だけで20ページほどが割かれている。続く「the」も20ページほどだ。「theの利用に関しては、相手のことを思いやらなければいけない」という趣旨のフレーズには心打たれた。

まだ読み途中だが、修飾語を「前置修飾」「後置修飾」の2パターンで解説しているのも興味深く、また腑に落ちるところだ。日本語では基本的に前置修飾しかないので、この前からも後ろからも修飾されるというのは非常にプレッシャーのかかるものだ。このような分類の仕方は感覚と非常にリンクするもので、構造がクリアになっていくようで大変面白い。

おそらく類似のテーマで大変人気のある本に「一億人の英文法」というものがあり、私も少しめくって読んでみたが、この「表現英文法」と比べると非常にライトな印象がある。学生や、そこまで仔細な表現のニュアンスを学ぶ必要のない人には、こちらのほうが読みやすいのかもしれない。私個人としては、「表現英文法」のほうがマニアックで面白く、読む楽しさがある。

まあ、言語構造の細部について掘り進める本なので、これを楽しく読んだところで、英語が話せるようになるかどうかについてはわからない。些細なニュアンスの違いが気になるようになって、より英語が瞬間的に作れなくなるということもあり得るかもしれない。しかしともかく面白すぎるので読み進めるほかない。

また読み終えて消化した際にはレポートを書こうと思う。

ヒステリック文法

f:id:sawatarix:20170331160752p:plain

「ハローエブリワン、ハーワーユー」
「「「ファイン、センキュー、アンドユー?」」」
「ファインセンキュー、シッダンプリーズ」
これが中学の英語のお決まりの出だしであった。
みんなで挨拶するから、自然と、ゆっくりはっきり一語一句しっかり声をそろえてこの呪文を唱えたのだった。当時からこの儀式になんの意味があるのか疑問だったが、後になって「I'm fine thank you, and you?」はあまり使わない、という話を聞いて、なおさら憤りを感じるのであった。

その英語教師は「わたしの名前は麻美(仮名)だからサミーって呼んで」と自ら言い出し、授業中も自分のことをサミーと呼ばせていた。何だろう、英語教師は英語っぽいあだ名をつけるとよい、みたいなことが指導要綱に書いてあったりするのだろうか。教師を堂々とあだ名で呼べるのは楽でもあったが、まあ狂っているなと思っていた。
サミーはおそらく40くらいの女性で、口紅が濃く、おかめみたいに口をすぼめて笑うのであった。カッと怒りやすく、また機嫌が悪いと授業が進まない。クラス内が嫌な雰囲気のまま時が過ぎるのを待つだけである。
今になって思うが、もしかしたら彼女は「大人の女性の色気」みたいなものを出そうとしていたのかもしれない。あの拗ね方といい、ねっとりした笑い方といい、本人としてはフェロモンを出しているつもりだったのかもしれない。中学生になにをしてるんだとも思うし、実際の好感度は最悪だったので、どういうつもりだったのかはもはや分からないが。

とある放課後、夕暮れ時の教室で、私は友達と3人で他愛もないおしゃべりに興じていた。なんとなしにサミーの話題になり、軽口を叩いて和気藹々と笑っていたところに、突然教室のドアがバーンと開けられた。
「あんたたちーッ!今私のことをーッ!ヒスって言ったでしょーッ!!」
なぜかそこには怒り狂ったサミーがいたのである。
突然怒鳴りこまれては戸惑うのも当然であるが、それ以前に、我々はサミーについて「ヒス」「ヒステリー」といった言葉は使っていなかったのである。というより、「ヒス」という言葉を知らなかったのである。
「ヒスって言ったでしょォォッ!」
しかし軽口を叩いていたのは事実であるし、「ヒス」が何かはよく分からなくても、なにかの悪口が偶然聞こえて怒っているということは確かなのだろう。我々は怯え、半分涙目になりながら謝罪し、なんとかその場を逃れたのであった。
後に「ヒス」「ヒステリー」の意味を調べると、「俗に、病的に興奮して感情を統制できず、激しく泣いたり怒ったりする状態。」とある。おい。まさにヒステリー状態だったではないか。

ところでこういう先生はもしかして珍しくないのだろうか。カラスヤサトシの漫画にも、色気をアピールしつつちょっとしたことで怒り狂うという先生の話が出てくるし、「鈴木先生」という漫画はフィクションだが、同じようなキャラクターが出てくる。
今思い出しても、小学校や中学校には珍妙な先生がたくさんいたが、気分で生徒を振り回すのは本当に勘弁してもらいたいものである。

甘い学習

f:id:sawatarix:20170330164120p:plain

英会話カフェというものがあって、これはいわゆる英会話教室よりももう少し敷居を低くした英会話練習施設である。私の行ったところは無機質な部屋に2人程度外国人がおり、フリードリンクを適当に自分で飲みながらあとは好きにしてというようなものであり、これで一時間1000円弱という感じである。よく宣伝されているような大手の英会話スクールと比較すると半額以下である。また予約などが要らないので、行きたいときに勝手に行って、辛くなったら帰ればよいというのが気楽である。その代わり、外国人は特に英語の専門家というわけでもなく、英語を教えてやろうという気もあまりなかったり、モチベーションに個人差があったりする。総合すると、新しいことを学びにいくには不向きだが、会話の練習という意味では気軽でいいだろう。


気軽といっても、始めは入るのに勇気がいるものである。私が最初に行ったときには、私より英語が下手な人がいて精神的に助かったというのがある。この間は全員私より上手く、しかも外国人が一方的に話す人だったので、私だけついていけず玉砕した。
ところでこの勇気というか、気恥ずかしさというのは何なのだろう。もちろん知らない店、知らないコミュニティに入っていくことは多少緊張したりするものであるが、特に英語の勉強のときに特別な気恥ずかしさを感じるように思う。さらに外国人と話そうとしているときに、隣に日本人がいたりすると最悪である。気恥ずかしさはマックスになる。


英語の恐ろしいところは、普通に苦しくて辛いお勉強であるにも関わらず、基本的に身につけたいスキルでもあるということである。さらにその出来には地頭のよさ(こういう言い方は基本的に嫌いだが)や努力量、センス、要領のよさ、学習にかけられるお金と時間…というものが関係してくる、ように思われている。社会に出ると、だんだん学校の成績みたいなものは関係なくなり、ただの思い出話のようになっていくが、英語学習についてはうっすらとそれが続いているような感覚がある。


すごくざっくりとした見方だが、英語が出来不出来が教養のありなしのような目線で見られるというようなことなのではないか。もちろんそれは厳密には違うものである。しかしこの身につけたほうがよいが、身につけられないというようなジレンマ、不出来なところを見られるのが恥ずかしいというような羞恥心というのは、教養という(この言葉も極力えらそうに使いたくはない言葉だが)ものの存在に似ているような気がする。
しかし誰でも最初から英語が出来たわけではない。誰しも最初は不慣れにたどたどしい英語を喋っていたのであって、それを笑えるものはいないはずである。また、英語は急にできるようになるものではなく、徐々にゆっくりと上達していくものでもある。ならば、たくさんの人がその過程上にいるはずだが、その人たちはあまり声を上げることはない。


私は、英語の勉強を、苦しんで目を瞑り、駆け抜けるように上級者になりたいのではなく、その過程の景色を楽しみながら、ゆっくりと続けたいと思っている。それは、そのほうが美しいとかかっこいいとかではなく、辛い思いをするのが嫌だし、がんばって勉強するのは面倒だからである。どうせなら、自分の納得いくように、趣味のようにやりたいということである。


英語の勉強をしていると、多くの知人がアドバイスをくれる。一番重要なのは単語の暗記量であるとか、発音であるとか、ラジオでニュースを聴くのがよいとか、外国人の恋人をつくるとよい、といった、効率よくすばやく英語を習得できる早道を教えてくれるのである。しかし私が本当に求めているのは、作業的にならずに単語を覚えられる方法だったり、発音が正しいかどうかをどうチェックできるかということだったり、聞きやすいが力にもなるラジオ番組だったり、双方の負担にならず外国人に英語を教えてもらえる方法であったりするのだ。こう説明すると、あまりいい答えは返ってこない。私のこの考え方は甘いとおもうのだが、英語を勉強する必要が必ずしもない状態で、甘く勉強することについては、誰にとがめられるものでもないだろう。


そういうわけで、このブログは、英語初心者が甘く勉強することについて声を上げている場所があってもよいはずだというスタンスでやっている。本当に楽しくて異様に効率のよい勉強法が見つかればしめたものである。

ステータス・カウンタが回らない

f:id:sawatarix:20170329173116p:plain

引き続き、自分を冷静に見つめることとしよう。

「スピーキング」だが、これはその性格上、学校教育で学ぶことが最も難しいということはすでに述べた。正答が確定しにくく、採点がむずかしく、教材の確保もむずかしい。最近しばらくの私のテーマはこのスピーキングをいかによく学べるかということであり、その手法開発に四苦八苦しているのである。
さてその四苦八苦の結果、スピーキングが得意になったかというと、道半ばである。スピーキングについてもう少し細かく見てみよう。
スピーキングの前提段階としてある発音についてだが、これはある程度練習したところ多少充足感があり、もちろんまだまだ課題はあるものの、カタカナ英語でガンガン話している人などをたまに見るに、このある程度の充足感があればそれ以上をあまり深追いすべきでないという結論に至った。発音を学ぶことはリスニングにもよい影響をもたらすと思われるのではじめに勉強すべきではあるが、通じる英語のための必須レベルとしてはそう高いものではないということは把握しておいてよいだろう。
スピーキングと聞いて一般に想定されるのは、頭に浮かんだ日本語を瞬時に翻訳する能力である。基本的にはこれを鍛えることになるのだが、これには文法の知識と語彙が前提となり、どの文法表現を選択するかという判断、時制や人称による文の変形の適用などをすばやくこなす必要がある。これを一種のスポーツだと捉え、パターンプラクティスを繰り返すことで反応速度を上げるというのが勉強の基本となる。
今挙げた、文法表現の選択および時制や人称による変形については、もちろん意識的に操作できるようになることが前提であるのだが、おそらく勉強しているうちに多少フィーリングで無意識的にこなせるようになることが望ましい。つまり三人称単数が主語のとき、動詞にsがつく響きのほうが自然に感じられ、無意識のうちにsをつけて発音するようになること、また、頼みごとをする際などに、その文法知識からではなく、申し訳ないという気持ちから自然にwillよりwouldが選択されるというようなことである。これらは英語的フィーリングの習得と言えると思うが、スピーキングの上達のためには避けては通れぬ道ではないかと考えている。この習得のためには、もちろん文法理解や知識の習得も大切であるが、いわば他文化理解といった視点からの研究が必要となると思う。このために言語そのものの成り立ちやネイティブの細かい使い分けなどを調べることは楽しく奥深いものであり、私が進んで取り組んでいることである。また、外国のドラマを見ることもこのフィーリングを感覚で理解するのに非常に有効であろう。
さてさらにスピーキングについて加えておくならば、挨拶や相槌、慣用句などのいわば丸暗記のようなものも必要となる。挨拶などは文法的理解で習得するものではなく、こういう場面ではどういう言葉をかけるかというものがある程度決まっているものである。難解なものではないにせよ、前述してきた思考回路とは別軸からのアプローチが必要となり、また日常的には頻繁に唐突に差し込まれるというのも特徴である。これも繰り返し練習することで反応速度を上げることが基本ではあるが、文章翻訳よりさらに生き物的でありまたフィーリングにも近いものとして、やや特別な注意を払いながら習得するべきものである。
スピーキングに対してさまざまなアプローチを考えては試している日々ではあるが、レベルとしてはどのくらいなのだろうか。私はたまに英会話カフェという、外国人と英語で話す機会が設けられたカフェスペースのような場所に訪れることがあるが、正直に言ってしどろもどろである。スッと英語が出てくるときもあるが、すこし言葉に詰まると後が続かなくなってしまう。おそらく習得単語量の不足や、単語が思い浮かばなかったときの説明や迂回、その際の文構造の把握などが原因としてあり、またそこに生来の尊大な羞恥心などが追い討ちをかけるのだと推測する。単純には、練習不足、経験不足だと言える。
スピーキングは私にとって楽しんで勉強できる分野ではあるが、楽しさの追求のため、効率としてはあまりよくないように思われる。RPGで言えば、最初の村から少し離れた洞窟で狩りを楽しんでいるというところなのだろうか。レベルは4程度と考えたい。

最後に「リスニング」である。私はもしかして生来英語のリスニングが不得意なのではないかと思うところがある。前述した英会話カフェでの会話にしても、私だけ英語が聞き取れていないということがある。英会話はコミュニケーションであるから、お互いのキャッチボールがうまく往復することで成立する。つまりスピーキングだけうまくなっても、英会話は成立しない。スピーキングのレベルに合わせるようにリスニングも鍛えなければいけない。
英語を聞き取れるようになるためには最低2万時間のリスニングが必要だと聞いたことがある。真偽については置いておくが、私の読んだ別の本でも、まずは膨大な量のインプットが習得の早道であるということが書いてあった。また、できれば年の小さいうちからがよいということであった。

思えば、子供時代はあまり英語に触れぬ日々であった。もっと幼少期には両親が英語教材を買い与えてくれていたようにも思うが、継続的に大量に摂取するまでには至らなかったのだろう。そうであれば、一刻も早く、大量に英語をインプットする必要がある。
そこで英語ドラマやポッドキャストなどをよく聞くようにはなった。なったが、2万時間には程遠い。少しでも効率を高めるため、意識的なリスニングができるよう心がけてたり、様々な工夫を試みてもいるが、まだまだ道のりは長いだろう。ようやく旅が始まったというところだろう。現在のレベルは3くらいあってほしいと思うが、低めに見積もって2としておく。

こうして私は私のステータスを把握することとなった。
リーディングLV5
ライティングLV2
スピーキングLV4
リスニングLV2

こんぼうかどうのつるぎを装備し、ドラキーを倒しているレベルである。こうして冷静に見ると、おぞましいほどに弱い。しかし誰でも最初はレベル1だったのである。ここから、どこをどうやってどう伸ばすかが考えどころなのである。今現在は、スピーキングおよびリスニングを伸ばすことをしばらく考えていたいと思っている。いつか勇者として胸を張れる日が来ることを願って、日々スライムを倒すのである。

ステータス・カウンタは回る

f:id:sawatarix:20170328161828p:plain

納得できる勉強を続ける前の前提として、自分の力がどれくらいあるのかを把握する必要がある。しかし人の能力というのは単純に数値化できるものではない。私はテストを受けたがらないからなおさらである。あくまで目的は、納得のいく勉強のための自己把握である。自己把握を始めよう。

さてその前に、私の考える英語勉強世界の概要を大雑把に解説する。まず英語の使い方としての4分類がある。「リーディング」「ライティング」「スピーキング」「リスニング」である。これは独立した柱であると捉える。つまり「リーディング」だけを伸ばし続けても、「スピーキング」はあまり伸びない。ただ「リーディング」と「ライティング」、「スピーキング」と「リスニング」の間には多少相乗効果が見られる。それぞれに有効な勉強法があり、また、単語と文法について学ぶことは、どの分野においても有効である。

ところで学校教育における英語とは、基本的にリーディングの勉強である。なぜリーディングなのかというと、教えやすいからである。学びやすく、テストで計りやすいリーディングが学校教育の基本となることはまあ仕方ないだろう。その後に、文章力を総合的に見る必要があり正答に幅があるライティング、教材の準備に手間がかかり教育方法も定まっていないリスニングが教えられ、最後に残ったスピーキングはほとんど教えられないのではないか。つまり学校教育を卒業した時点で身についている4分野の能力には差があり、そこから何をどう学び、何を忘れるかで現在の能力が決まるのである。

さてではこの4分野において、今の私の能力を客観的に把握していこう。分かりやすく把握するために、RPGのレベルに例えていこう。最高はLV99である。全ての能力においてLV50以上であれば、まあ表ボスなら普通に倒せる程度だ。LV30程度なら、いっちょ前の冒険者として箔がついている頃だろう。LV15くらいだと、駆け出しの冒険者としては名前が挙がるようになってきて、初期の中ボスと腕試しをするような感じである。

まずはリーディングだが、これは前述のとおり学校教育である程度基礎ができているはずだ。私は学校の英語テストではある程度点数が取れたほうだ。だが今現在、なぜかうまく英文が読めない。これは考えるに、単語の勉強量があまり多くないことがあげられるだろう。おそらく受験などで覚えた単語もある程度忘れてしまっているのだろう。また、文法の理解が厳密な部分で身についていないため、綺麗な構文が多い学校のテストではフィーリングで読めてしまったものが、日常的な英文で読み取れなくなってしまっているようにも思う。現在、Webサイトなどの英文を読む必要ができた際には、英語辞書やオンライン翻訳などを駆使しつつなんとか読んでいるといった感じだ。これでは実用には程遠い。もっと弱いザコ敵をたくさん倒しつつ経験値をあげる必要があるだろう。レベルは5とする。

次にライティングである。ライティングが必要となるような場面がこれまでにあっただろうか。先日お会いした、がんばって英語を習得した方のお話を聞くと、ライティングは英語の総合力の上昇のために非常に有効だという。表現したいことがまずあり、そのために単語を調べて使う必要があるから、必要な単語から実用的に身につけることができ、手を動かして書くことで記憶にも定着しやすいのだという。なるほど、確かに説明としては説得力のあるものである。ライティングは、正しい文法はさることながら、文章の組み立てや表現のために、幅広くボキャブラリーが必要となってくる。おそらく単語量と、書きたい文章のお手本となるような英文を読み込んで自分の中にストックしていくことが求められるのだと思う。私はそうした練習をしているか?全くしていない。まずは手を動かす事からはじめるべきだろう。スライムベスに苦戦しそうだ。レベルは2とする。

思いのほか長くなったので、翌日へ引き継ぐこととする。果たして世界を救うような勇者は生まれるだろうか。

オノマトペの宿主

f:id:sawatarix:20170327224813p:plain

このブログは正しい英語については全く保証できないので、基本的に英語についての断定は避けているつもりである。英語ができないし何も分かってはいないが、文体は偉そうに書くというのがスタンスのひとつである。

しかしこれくらいは断定させてもらおう。「do」は英語の中で最もよく使われる動詞である。なにしろ疑問文の文頭にも使われるし、代動詞としても使われる。「do」を制するものは英語を制するというのは、さすがに過言であるが。

日本語で「do」にあたるのは「する」だろうが、これもよく使われる。疑問詞に使われたりはしないが、「する」は日本語特有の使われ方をしている。それは漢字や外来語とあわせて新たな動詞を作ってしまうという使われ方である。「改善する」「ゲームする」など、適当なことばと「する」をあわせれば動詞ができてしまう。便利なものである。

さて英語の「do」も、日本語の「する」も、妙な活用をする。「do」は「do,did,done」、「する」はサ行変格活用である。おそらく頻繁に使われる言葉は、使い込まれるうちに他の言葉とは違った変化をするのだろう。

この「do」がじゃあ一体どこから来たのだろう、と思って調べてみると、もともとは「don」という音であったようだ。(インターネットのいくつかのページからつまみ読みして推測している話なので、確かなソースは見つけていない。)そしてこの「don」は、もともと物を置く動作のことを示していたようである。ということは、物を置く音から言葉ができているのではないか?と推測する。「do」はもしかすると擬声語なのかもしれない。

 

考えてみると、英語の動詞には擬声語からきているのではないかと思われるものが多い。pop, smash, chat, flick, click

対して、日本語の動詞にはあまり音から派生したものは少ないように思う。「はじける」「すべらせる」「押す」

日本語には動詞が少ない、という意見がある。この真偽については諸説あるようなのでひとまず置いておくが、日本語に擬声語が多いというのはある程度確かなようで、実感としてもわかるものである。「ぽんぽん」「ぺちゃくちゃ」「すべすべ」など。たとえば仮説として、日本語の動詞には擬声語から派生したものが少なく、そのニュアンスを詳細に伝えるために、擬声語が多くなっているとはいえないだろうか。

日本の漫画では擬声語が頻繁に使われ、英訳の際に苦労するという話はよく聞くが、アメリカンコミックでは「CRAAAAAAAASH」とか「BOOOOOMB」と書かれていたりする。つまり、英語には擬声語が少ないというよりも、それぞれの言葉に擬声語のニュアンスが宿っているのだともいえる。のかもしれない。

 

ところでそうしてみると、日本語の音は一体どこから来たのかよくわからない。「する」はどうなって「する」という音になったんだろうか。

パッと言う

日本語で書かれた文章から英語を生成しようとすると、どうしても単語や直訳からの並べ替えといった作業が発生してしまう。感覚からダイレクトに英語にする練習というのはどうやったらできるだろうか。

目の前に相手がいて、実際に会話をする、というのが一番よいことは確かだろうが、残念ながらそんな相手はいない。自分の中で会話をシミュレーションする、というのもうまいやり方だと思うが、自分の考えた文章があっているのかどうか確信できない。なにかいい教材はないだろうか。

たまたま昔買った本に、目的に近い本があった。

挨拶や日常会話の一文一文に、イラストが付いている。文章もそれなりに砕けていて、イラストから連想されるシチュエーションから直接感覚的に英語を生成するように仕向けている。挨拶一つでもそれなりにバリュエーションがあったので、これはこれでなかなか悪くない教材のようにも思える。確かどこかのブログで、瞬間英作文の教材としても勧められていたように記憶している。

ところでこの本、説明したように、一文一文にイラストが付いているせいで、イラストの量が半端ない。しかもどのイラストも線の勢い、人物の描きわけ、表情の豊かさ、かなりのクオリティがある。イラストレーターを見てみると、Kajioと書かれているが、経歴によると元ジャンプの漫画家であるようだ。ものすごく納得である。

 

しかしこの教材も、結局はイラストに添えられた文章から英語が生成されてしまう。英語の文章の記憶を引き出すのに、日本語がキーとなってしまうということだ。極力日本語を経由しないようこの教材が努力しているのはわかるのだが、これはつまり、イラストだけでは導くべき英語を定めることができないという、イラストの限界というのか、あるいは言語の説明能力の優位性というような原理的な部分の問題である。

とはいえ、文章だけの教材より、日本語がキーとなる割合は少なくなりそうだ。イラストから英語を導き出すのは、感覚から直接英語を生成するのに多少は近いだろう。人と対面しているイラストは実際に人と対面した時の感覚と近いのかどうか、という問題はさらに残るものの、重層的な記憶回路を作る上では役立てるべき一冊かもしれない。

 

さて別の課題としては、これが記憶の教材であって、生成の教材ではないということである。なんとか、日本語を経由せず、生成すべき英語をバリュエーションを持って指定しつつ答えも用意できるようなシステムが構築できないだろうか、というのが専ら最近の関心である。